夜明けの空き部屋に受話器が外れたまま置かれた黒電話
Story / Epilogue

終章

電話は消えた。
けれど、音だけが残っていた。

終章 夜明け 空き部屋 次の着信

朝になれば、
怖いものは消える。
そう信じていた。

終章 / Phone.co.jp

玲奈は、居間で目を覚ました。

朝だった。

障子の向こうから、薄い光が入っている。夜の湿った匂いは消え、 畳の上には淡い金色の線が伸びていた。

最初に聞こえたのは、鳥の声だった。

次に、冷蔵庫の低い音。

そして、自分の呼吸。

家は、普通の家に戻っていた。

玲奈はしばらく天井を見ていた。古い木の梁。少し剥がれた壁紙。 どれも昨日と同じだった。いや、三日前と同じだった。

黒電話はなかった。

居間の中央にも、台所にも、洗面所にも、玄関にも。 畳の上に水滴はなく、台所の床に黒い破片も残っていない。 鏡の右下に書かれていた文字も消えていた。

玲奈はゆっくり起き上がった。

手のひらに、細い赤い跡があった。

コードを握りしめた跡。

夢ではなかった。

夢なら、体に残らない。

彼女は立ち上がり、台所へ行った。水を飲もうとして、流し台に手をついた。 ステンレスは冷たかったが、昨夜のような異常な冷たさではない。

窓ガラスには朝の山が映っていた。

そこに黒電話は映っていない。

玲奈は、はじめて深く息を吐いた。

終わった。

そう思った。

そのとき、スマートフォンが鳴った。

玲奈は動かなかった。

それは黒電話のベルではなかった。いつもの電子音。 画面には、母の名前が表示されていた。

玲奈は長い間、画面を見つめた。

出てもいい電話。

出てはいけない電話。

その違いが、もう分からなくなっていた。

それでも彼女は、画面に触れた。

「もしもし」

母の声がした。

「玲奈? 大丈夫? 朝からごめんね。変な夢を見て」

玲奈は、息を止めた。

「夢?」

母は少し黙った。

「おばあちゃんの夢。古い家で、電話が鳴っていたの」

玲奈は流し台の縁を握った。

母の声は、普通だった。心配しているだけの声。 けれど、その言葉は普通ではなかった。

玲奈は小さく言った。

「それで?」

母は、ためらった。

「誰かが電話に出ようとしていてね。おばあちゃんが言うの。出なくていいって」

玲奈は目を閉じた。

朝の光の中で、祖母の声が一瞬だけよみがえった。

出なくてよかったのよ。

玲奈は、泣いていることに気づいた。

母が電話の向こうで慌てた。

「玲奈? どうしたの?」

玲奈は首を振った。

母には見えないのに、首を振った。

「大丈夫。少し、眠れてなかっただけ」

嘘ではなかった。

眠れていなかった。

何年も。

祖母の電話に出なかった日の夕方から、ずっと。

母との電話を切ったあと、玲奈は家の中をもう一度見て回った。 居間、台所、洗面所、玄関。どこにも黒電話はない。

ただ、玄関のたたきに、細い水の跡が残っていた。

家の外から入ってきたのではない。

家の中から外へ出ていった跡だった。

玲奈は靴を履き、外へ出た。

山の朝は静かだった。坂道の下に、隣の家の屋根が見える。 遠くで車が一台走る音がした。

昨夜、玄関の外に見えた祖母の家は、どこにもなかった。

そこにはいつもの坂道があり、濡れた石段があり、朝の空気があった。

玲奈は空を見た。

青かった。

こんなに明るい世界で、あんな電話が鳴るはずがない。

そう思いたかった。

だが、足元の水の跡は、坂道の途中まで続いていた。

玲奈はその跡を追った。

坂を少し下ったところに、古い公衆電話ボックスがあった。

そんなものは昨日までなかった。

少なくとも、玲奈は見ていなかった。

透明なガラスは曇っていて、中はよく見えない。 扉の下から、細い水が流れ出ていた。

玲奈は近づかなかった。

近づけば、鳴る。

そう分かった。

電話は消えたのではない。

ただ、彼女から少し離れただけだった。

電話ボックスの曇ったガラスに、指で書かれたような跡があった。

文字ではない。

数字だった。

7317317

覚えてはいけない番号。

玲奈は目をそらした。

けれど、もう遅かった。

番号は、頭の中に残っていた。

ダイヤルの戻る音と一緒に。

七。

三。

一。

七。

三。

一。

七。

玲奈は坂道を下った。

振り返らなかった。

背中の後ろで、公衆電話ボックスの扉が少し開く音がした。

それでも、振り返らなかった。

もう一度出れば、終わりではなく始まりになる。

彼女はそれを知っていた。

玲奈は町へ下り、その日のうちに貸家を出た。 荷物はほとんど置いていった。段ボールも、寝具も、台所用品も。 不動産屋には、体調を崩したとだけ伝えた。

不動産屋は困ったように言った。

「あの家、長く住む方がなかなかいなくて」

玲奈は、理由を聞かなかった。

聞けば、また電話が鳴る気がした。

数日後、玲奈は警察署から連絡を受けた。

貸家の件で確認したいことがあるという。

彼女は署へ行った。

取調室ではなく、小さな面談室に通された。 そこで黒川という刑事が、机の上に一枚の写真を置いた。

写真には、黒電話が写っていた。

玲奈は何も言わなかった。

黒川は写真を見つめながら言った。

「これ、あなたの家にありましたか」

玲奈は答えなかった。

黒川は続けた。

「貸家にはありませんでした。これは、署の証拠保管室で撮った写真です」

玲奈は、ゆっくり顔を上げた。

黒川の目の下には、濃い影があった。 眠っていない顔だった。

彼は言った。

「三日前の午前三時十七分に、保管室の中で鳴ったそうです」

玲奈は、面談室の壁を見た。

白い壁。蛍光灯。机。椅子。

どこにも黒電話はない。

だが、部屋の隅にある古い内線電話が、急に気になった。

黒川も、それを見た。

二人はしばらく黙っていた。

内線電話は鳴らなかった。

鳴らなかったことが、かえって怖かった。

黒川は、低い声で言った。

「もし鳴ったら、出ますか」

玲奈は答えるまでに時間がかかった。

そして、静かに言った。

「出ません」

黒川はうなずいた。

けれど、その顔には安心はなかった。

玲奈も、安心していなかった。

出ない、と決めることはできる。

だが、誰かの声が聞こえたとき、それでも出ないでいられるかは分からない。

その日の夜、玲奈はホテルに泊まった。

部屋に入って最初にしたことは、ベッド脇の電話を外すことだった。 コードを抜き、受話器を外し、クローゼットの中へ入れた。

それから、スマートフォンの電源も切った。

眠る前に、母から一通のメッセージが届いていたことに気づいた。

画面には、こう表示されていた。

おばあちゃんの夢、また見たら連絡してね。

玲奈は返事を打たなかった。

電源を切った。

部屋は静かだった。

空調の音。遠くのエレベーターの音。廊下を歩く誰かの足音。 ホテルの音は、貸家の沈黙より安心できた。

玲奈はベッドに入った。

その夜、電話は鳴らなかった。

次の夜も、鳴らなかった。

一週間が過ぎた。

黒電話のことを考えない時間が少しずつ増えていった。

ただ、時々、指先が覚えていた。

ダイヤルを回す重さ。

コードを引き抜いた感触。

受話器の冷たさ。

そして、番号。

7317317。

玲奈はその番号を紙に書かなかった。

誰にも言わなかった。

忘れようとした。

けれど、忘れようとするほど、番号ははっきりした。

ある朝、玲奈は駅のホームで電車を待っていた。

人が多かった。通勤客、学生、旅行者。 朝の光が線路に落ち、アナウンスが流れ、世界は普通に動いていた。

そのとき、ホームの端にある非常電話が鳴った。

誰も気にしなかった。

駅員も気づいていない。

玲奈だけが、その音を聞いた。

ジリリリリリリリリリリリリ。

古い黒電話の音だった。

玲奈は目を閉じた。

出ない。

彼女は心の中で言った。

出ない。

音は続いた。

玲奈はホームから一歩下がった。

その瞬間、隣に立っていた小さな男の子が、非常電話のほうを見た。

玲奈の体が凍った。

男の子は母親の手を離し、ホームの端へ向かって歩き出した。

電話は鳴っている。

玲奈は動いた。

男の子の手をつかみ、強く引き戻した。

母親が驚いて礼を言った。

玲奈は何も言えなかった。

非常電話の音は止まっていた。

代わりに、ホームの反対側で、誰かのスマートフォンが鳴った。

電子音だった。

だが玲奈には、その奥に古いベルの音が混ざっているように聞こえた。

電話は、形を選ばない。

黒電話でなくてもいい。

公衆電話でも、内線電話でも、スマートフォンでもいい。

人が出たくなる形であれば、それでいい。

玲奈は、ホームの人々を見た。

誰も知らない。

誰も、あの番号を知らない。

でも、誰かがいつか聞く。

どこかで電話が鳴る。

誰かが思う。

出なければ。

助けなければ。

確かめなければ。

玲奈は、自分の手を見た。

赤い跡は、ほとんど消えていた。

けれど完全には消えていない。

彼女はその手を握った。

電車がホームに入ってきた。

風が吹いた。

人々が動き出す。

玲奈も歩き出した。

背後で、誰かが言った。

「もしもし」

玲奈は振り返らなかった。

振り返れば、始まる。

だから彼女は、前を向いた。

電話は終わっていない。

けれど、玲奈はもう知っている。

すべての電話に出る必要はない。

すべての声を助けることはできない。

そして、出なかった自分を、いつまでも罰し続ける必要もない。

ホームの騒音の中で、遠く、遠く、ベルの音が一度だけ鳴った。

ジリ。

それきりだった。

電話は、まだどこかで鳴る。
でも、もうすべてに
出なくていい。

完 / Phone.co.jp