暗闇の中で最後の電話に伸びる青白い手
Story / Chapter Five

最後の着信

最後の電話とは、
最後に鳴る電話ではなかった。

第五章 玄関の外 暗闇の人影 最後に出る者

最後の電話に出て。
その声は、
私の声ではなかった。

第五章 / Phone.co.jp

玄関の外に、誰かが立っていた。

顔は見えない。外灯は消えている。月もない。 開いた戸の向こうは、夜というより、黒い水のようだった。

その暗闇の中で、人影だけが少し白く浮いていた。

人影は、受話器を持っていた。

黒電話の受話器だった。

本体は見えない。コードも見えない。 ただ、受話器だけが人影の手の中にあり、その黒い曲線が闇よりさらに黒く見えた。

人影はもう一度言った。

「最後の電話に出て」

玲奈は台所の床に座ったまま、動けなかった。

その声は、今まで聞いた声と違っていた。 玲奈の声ではない。子どものころの声でも、未来から擦り切れて戻ってきた声でもない。

男とも女とも分からない。

近くも遠くもない。

ただ、長い間待っていた声だった。

玲奈はやっと息を吸った。

「誰なの」

人影は答えなかった。

かわりに、玄関の外でベルが鳴った。

ジリリリリリリリリリリリリ。

黒電話の本体は、見えない。

それでも音は外から来る。庭から。坂道から。森の奥から。 いや、もっと遠い場所から。まだこの世にあるかどうか分からない場所から。

玲奈は立ち上がった。

足が震えている。

それでも、立った。

ここで動かなければ、電話は家の中へ入ってくる。 そう思った。根拠はない。ただ、分かった。

台所の黒電話は消えていた。

鏡の文字も、スマートフォンの画面も、台所の窓の曇りも、すべて静かになっていた。 家の中だけが、急に現実へ戻されたようだった。

だからこそ、玄関の外だけが異常だった。

玲奈は廊下を進んだ。

一歩。

床板が鳴る。

二歩。

壁の向こうで、何かが一緒に進む。

三歩。

玄関の外の人影が、少しだけ後ろへ下がった。

逃げているのではない。

玲奈を外へ誘っている。

ジリリリリリリリリリリリリ。

ベルは鳴り続けている。

玲奈は玄関のたたきに足を下ろした。 冷たかった。石が濡れている。外から水が入り込んだのかと思ったが、 玄関の戸の外に雨は降っていなかった。

水は、家の中から外へ流れていた。

廊下の奥、台所のほうから、細い水の筋が玄関へ向かって流れている。 それは玲奈の足元を通り、開いた戸の外へ消えていた。

玲奈はその水の筋を見て、なぜか幼いころの記憶を思い出した。

祖母の家。

黒電話。

夏の夕方。

誰もいない部屋で、電話が一度だけ鳴った記憶。

それは忘れていた記憶だった。

いや、忘れさせられていた記憶だった。

人影が言った。

「思い出した?」

玲奈は顔を上げた。

「あなた、あの時の」

人影は、少しだけ首を傾けた。

その動きで、玲奈には分かった。

これは誰かではない。

これは、電話に出なかった者たちの形だ。

電話に出た者たちではなく、出なかった者たち。

出なかったことで生き残り、しかし電話の音を一生聞き続けることになった者たち。

その影が、ひとつの人影になっている。

玲奈は、かすれた声で言った。

「最後の電話って、何」

人影は受話器を少し持ち上げた。

ベルの音が止まった。

玄関の外が、完全な無音になった。

その無音の中で、人影の声がした。

「最後の電話とは、最後に鳴る電話ではない」

玲奈は聞いていた。

「最後に出る人間のこと」

玲奈の手が震えた。

人影は受話器を差し出した。

玲奈は一歩下がった。

「私が出たら、終わるの」

人影は答えなかった。

答えないことが、答えだった。

玲奈は、台所で聞いた声を思い出した。

三回目で、向こう側が開く。

まだ二回目。

最後は、家に戻る。

ここが家ではないのなら、最後の家はどこにあるのか。

人影の後ろ、暗闇の奥に、かすかな光が見えた。

小さな家の窓だった。

山の貸家ではない。

もっと古い家。

祖母の家。

玲奈は、忘れていた記憶を思い出していく。

祖母の家の居間に、黒電話があった。 まだ幼かった玲奈は、その丸いダイヤルが好きだった。 指を入れて回すと、カチカチと戻る。その音が面白くて、何度も遊んだ。

ある夕方、家に誰もいないとき、電話が鳴った。

玲奈は出なかった。

怖かったからではない。

祖母から、勝手に電話に出てはいけないと言われていたからだ。

電話は鳴り続けた。

長く、長く、鳴り続けた。

そして、止まった。

その夜、祖母は帰ってこなかった。

大人たちは、玲奈に何も言わなかった。 事故だったとだけ聞かされた。電話のことは誰にも話さなかった。 話せば、なぜ出なかったのかと責められる気がしたからだ。

でも、電話は覚えていた。

出なかった子どもを。

出なかったために、助けられたかもしれない誰かを助けられなかった子どもを。

玲奈は玄関の外に見える小さな家を見つめた。

人影が言った。

「今度は、出る?」

玲奈は、涙が出ていることに気づいた。

悲しみではなかった。

恐怖でもなかった。

記憶が、体の中へ戻ってくる痛みだった。

彼女は受話器を見た。

黒い受話器。

その先に、祖母の家があるのか。

それとも、祖母の死に縛られた自分の記憶があるだけなのか。

どちらでも同じだった。

電話は、玲奈に罪を思い出させた。 そしてその罪を使って、受話器を取らせようとしている。

玲奈は、静かに言った。

「あなたは、おばあちゃんじゃない」

人影は動かなかった。

玲奈は続けた。

「私の後悔を使っているだけ」

受話器の黒い表面が、かすかに震えた。

人影の輪郭が、少し崩れた。

玲奈は玄関のたたきから一歩外へ出た。

冷たい水が足首を包んだ。

外は、坂道ではなかった。

森でもなかった。

足元には畳があった。

玲奈は息を飲んだ。

玄関の外だと思っていた場所は、祖母の家の居間だった。

昔のままの居間。古い柱。低い机。茶箪笥。 夕方の光が障子の向こうに残っている。

そして、部屋の中央に黒電話が置かれていた。

今までの黒電話よりも古い。

もっと黒く、もっと静かで、もっと本物に見えた。

その電話が鳴った。

ジリリリリリリリリリリリリ。

玲奈は分かった。

これが三回目だ。

そして、これが最後の電話だ。

人影は消えていた。

玲奈は一人だった。

昔の居間に、一人。

黒電話は鳴っている。

もし出れば、何かが終わるかもしれない。

もし出なければ、また誰かが帰ってこないかもしれない。

玲奈は、幼い自分の気配を部屋の隅に感じた。

小さな玲奈が、柱の陰に隠れている。

電話に出てはいけないと言われた子ども。

でも出なかったことを、一生責め続けた子ども。

玲奈はその子に向かって言った。

「あなたは悪くない」

ベルの音が少し弱くなった。

玲奈は黒電話へ近づいた。

受話器に手を伸ばす。

その手は、もう震えていなかった。

出るためではない。

許すためでもない。

終わらせるために。

玲奈は受話器を取った。

ベルが止まった。

無音。

十八秒。

玲奈は数えなかった。

もう、数える必要はなかった。

受話器の向こうで、誰かが息を吸った。

悲鳴が来る。

玲奈はそう思った。

しかし、聞こえたのは祖母の声だった。

「出なくてよかったのよ」

玲奈は目を閉じた。

その一言で、部屋の空気が変わった。

畳の匂い。夕方の光。茶箪笥の影。 すべてが、長い間閉じ込められていた記憶から、本当の記憶へ戻っていく。

祖母の声は続いた。

「あれは、私にかかってきた電話じゃない。あなたを呼ぶ電話だった」

玲奈は受話器を握りしめた。

「じゃあ、誰が」

受話器の向こうで、祖母が小さく息を吐いた。

「電話は、人を選ぶの。弱いところを知っているから」

その直後、祖母の声が遠くなった。

かわりに、今まで聞いたすべての悲鳴が、受話器の奥で重なり始めた。

玲奈の声。

子どもの声。

知らない女の声。

出なかった者たちの声。

出てしまった者たちの声。

その全部が、最後に一つの言葉になった。

かわって。

玲奈は受話器を耳から離した。

黒電話のダイヤルが、勝手に回り始めた。

七。

三。

一。

七。

三。

一。

七。

覚えてはいけない番号。

玲奈は、受話器を置かなかった。

かわりに、コードをつかんだ。

コードは長く、畳の上から部屋の隅へ、茶箪笥の裏へ、障子の向こうへ、 そして見えない暗闇へ伸びていた。

玲奈はそれを強く引いた。

部屋全体が震えた。

黒電話のベルが鳴った。

ジリリリリリリリリリリリリ。

玲奈はもう一度引いた。

どこかで、悲鳴ではない音がした。

何かが剥がれる音。

長い時間、人の後悔に貼りついていたものが、無理やり引きはがされる音。

小さな玲奈が、柱の陰から出てきた。

その子は泣いていなかった。

ただ、玲奈を見ていた。

玲奈はその子に向かって笑った。

それから、最後の力でコードを引き抜いた。

黒電話の本体が、畳の上で跳ねた。

ベルが止まった。

ダイヤルも止まった。

受話器の向こうで、祖母の声が最後に言った。

「帰りなさい」

次の瞬間、部屋は真っ暗になった。

玲奈は落ちていくような感覚を覚えた。

どこかで電話が鳴っている。

だが今度は、遠かった。

ずっと遠く。

もう、彼女を呼ぶ音ではなかった。

受話器の向こうで、
初めて悲鳴ではない声がした。

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