玄関の外に、誰かが立っていた。
顔は見えない。外灯は消えている。月もない。 開いた戸の向こうは、夜というより、黒い水のようだった。
その暗闇の中で、人影だけが少し白く浮いていた。
人影は、受話器を持っていた。
黒電話の受話器だった。
本体は見えない。コードも見えない。 ただ、受話器だけが人影の手の中にあり、その黒い曲線が闇よりさらに黒く見えた。
人影はもう一度言った。
玲奈は台所の床に座ったまま、動けなかった。
その声は、今まで聞いた声と違っていた。 玲奈の声ではない。子どものころの声でも、未来から擦り切れて戻ってきた声でもない。
男とも女とも分からない。
近くも遠くもない。
ただ、長い間待っていた声だった。
玲奈はやっと息を吸った。
人影は答えなかった。
かわりに、玄関の外でベルが鳴った。
ジリリリリリリリリリリリリ。
黒電話の本体は、見えない。
それでも音は外から来る。庭から。坂道から。森の奥から。 いや、もっと遠い場所から。まだこの世にあるかどうか分からない場所から。
玲奈は立ち上がった。
足が震えている。
それでも、立った。
ここで動かなければ、電話は家の中へ入ってくる。 そう思った。根拠はない。ただ、分かった。
台所の黒電話は消えていた。
鏡の文字も、スマートフォンの画面も、台所の窓の曇りも、すべて静かになっていた。 家の中だけが、急に現実へ戻されたようだった。
だからこそ、玄関の外だけが異常だった。
玲奈は廊下を進んだ。
一歩。
床板が鳴る。
二歩。
壁の向こうで、何かが一緒に進む。
三歩。
玄関の外の人影が、少しだけ後ろへ下がった。
逃げているのではない。
玲奈を外へ誘っている。
ジリリリリリリリリリリリリ。
ベルは鳴り続けている。
玲奈は玄関のたたきに足を下ろした。 冷たかった。石が濡れている。外から水が入り込んだのかと思ったが、 玄関の戸の外に雨は降っていなかった。
水は、家の中から外へ流れていた。
廊下の奥、台所のほうから、細い水の筋が玄関へ向かって流れている。 それは玲奈の足元を通り、開いた戸の外へ消えていた。
玲奈はその水の筋を見て、なぜか幼いころの記憶を思い出した。
祖母の家。
黒電話。
夏の夕方。
誰もいない部屋で、電話が一度だけ鳴った記憶。
それは忘れていた記憶だった。
いや、忘れさせられていた記憶だった。
人影が言った。
玲奈は顔を上げた。
人影は、少しだけ首を傾けた。
その動きで、玲奈には分かった。
これは誰かではない。
これは、電話に出なかった者たちの形だ。
電話に出た者たちではなく、出なかった者たち。
出なかったことで生き残り、しかし電話の音を一生聞き続けることになった者たち。
その影が、ひとつの人影になっている。
玲奈は、かすれた声で言った。
人影は受話器を少し持ち上げた。
ベルの音が止まった。
玄関の外が、完全な無音になった。
その無音の中で、人影の声がした。
玲奈は聞いていた。
玲奈の手が震えた。
人影は受話器を差し出した。
玲奈は一歩下がった。
人影は答えなかった。
答えないことが、答えだった。
玲奈は、台所で聞いた声を思い出した。
三回目で、向こう側が開く。
まだ二回目。
最後は、家に戻る。
ここが家ではないのなら、最後の家はどこにあるのか。
人影の後ろ、暗闇の奥に、かすかな光が見えた。
小さな家の窓だった。
山の貸家ではない。
もっと古い家。
祖母の家。
玲奈は、忘れていた記憶を思い出していく。
祖母の家の居間に、黒電話があった。 まだ幼かった玲奈は、その丸いダイヤルが好きだった。 指を入れて回すと、カチカチと戻る。その音が面白くて、何度も遊んだ。
ある夕方、家に誰もいないとき、電話が鳴った。
玲奈は出なかった。
怖かったからではない。
祖母から、勝手に電話に出てはいけないと言われていたからだ。
電話は鳴り続けた。
長く、長く、鳴り続けた。
そして、止まった。
その夜、祖母は帰ってこなかった。
大人たちは、玲奈に何も言わなかった。 事故だったとだけ聞かされた。電話のことは誰にも話さなかった。 話せば、なぜ出なかったのかと責められる気がしたからだ。
でも、電話は覚えていた。
出なかった子どもを。
出なかったために、助けられたかもしれない誰かを助けられなかった子どもを。
玲奈は玄関の外に見える小さな家を見つめた。
人影が言った。
玲奈は、涙が出ていることに気づいた。
悲しみではなかった。
恐怖でもなかった。
記憶が、体の中へ戻ってくる痛みだった。
彼女は受話器を見た。
黒い受話器。
その先に、祖母の家があるのか。
それとも、祖母の死に縛られた自分の記憶があるだけなのか。
どちらでも同じだった。
電話は、玲奈に罪を思い出させた。 そしてその罪を使って、受話器を取らせようとしている。
玲奈は、静かに言った。
人影は動かなかった。
玲奈は続けた。
受話器の黒い表面が、かすかに震えた。
人影の輪郭が、少し崩れた。
玲奈は玄関のたたきから一歩外へ出た。
冷たい水が足首を包んだ。
外は、坂道ではなかった。
森でもなかった。
足元には畳があった。
玲奈は息を飲んだ。
玄関の外だと思っていた場所は、祖母の家の居間だった。
昔のままの居間。古い柱。低い机。茶箪笥。 夕方の光が障子の向こうに残っている。
そして、部屋の中央に黒電話が置かれていた。
今までの黒電話よりも古い。
もっと黒く、もっと静かで、もっと本物に見えた。
その電話が鳴った。
ジリリリリリリリリリリリリ。
玲奈は分かった。
これが三回目だ。
そして、これが最後の電話だ。
人影は消えていた。
玲奈は一人だった。
昔の居間に、一人。
黒電話は鳴っている。
もし出れば、何かが終わるかもしれない。
もし出なければ、また誰かが帰ってこないかもしれない。
玲奈は、幼い自分の気配を部屋の隅に感じた。
小さな玲奈が、柱の陰に隠れている。
電話に出てはいけないと言われた子ども。
でも出なかったことを、一生責め続けた子ども。
玲奈はその子に向かって言った。
ベルの音が少し弱くなった。
玲奈は黒電話へ近づいた。
受話器に手を伸ばす。
その手は、もう震えていなかった。
出るためではない。
許すためでもない。
終わらせるために。
玲奈は受話器を取った。
ベルが止まった。
無音。
十八秒。
玲奈は数えなかった。
もう、数える必要はなかった。
受話器の向こうで、誰かが息を吸った。
悲鳴が来る。
玲奈はそう思った。
しかし、聞こえたのは祖母の声だった。
玲奈は目を閉じた。
その一言で、部屋の空気が変わった。
畳の匂い。夕方の光。茶箪笥の影。 すべてが、長い間閉じ込められていた記憶から、本当の記憶へ戻っていく。
祖母の声は続いた。
玲奈は受話器を握りしめた。
受話器の向こうで、祖母が小さく息を吐いた。
その直後、祖母の声が遠くなった。
かわりに、今まで聞いたすべての悲鳴が、受話器の奥で重なり始めた。
玲奈の声。
子どもの声。
知らない女の声。
出なかった者たちの声。
出てしまった者たちの声。
その全部が、最後に一つの言葉になった。
玲奈は受話器を耳から離した。
黒電話のダイヤルが、勝手に回り始めた。
七。
三。
一。
七。
三。
一。
七。
覚えてはいけない番号。
玲奈は、受話器を置かなかった。
かわりに、コードをつかんだ。
コードは長く、畳の上から部屋の隅へ、茶箪笥の裏へ、障子の向こうへ、 そして見えない暗闇へ伸びていた。
玲奈はそれを強く引いた。
部屋全体が震えた。
黒電話のベルが鳴った。
ジリリリリリリリリリリリリ。
玲奈はもう一度引いた。
どこかで、悲鳴ではない音がした。
何かが剥がれる音。
長い時間、人の後悔に貼りついていたものが、無理やり引きはがされる音。
小さな玲奈が、柱の陰から出てきた。
その子は泣いていなかった。
ただ、玲奈を見ていた。
玲奈はその子に向かって笑った。
それから、最後の力でコードを引き抜いた。
黒電話の本体が、畳の上で跳ねた。
ベルが止まった。
ダイヤルも止まった。
受話器の向こうで、祖母の声が最後に言った。
次の瞬間、部屋は真っ暗になった。
玲奈は落ちていくような感覚を覚えた。
どこかで電話が鳴っている。
だが今度は、遠かった。
ずっと遠く。
もう、彼女を呼ぶ音ではなかった。