次は、あなたからかける番。
赤い紙片には、そう書かれていた。
玲奈は台所の入口に立ったまま、その文字を見つめていた。 細く、几帳面で、古い日記に書かれたような字だった。 だが、インクではなかった。
紙の上に、文字だけが浮いている。
赤い。
乾いているのに、まだ濡れて見える赤だった。
黒電話は完全に元に戻っていた。 金槌で割ったはずのダイヤルも、欠けたはずの受話器も、何事もなかったように静かに置かれている。 ただ、さっき飛び散った破片だけが、台所の床に残っていた。
壊れた電話の破片。
壊れていない電話。
その二つが、同じ部屋にあった。
玲奈は、もう何を信じればいいのか分からなかった。
スマートフォンは使えなかった。画面は暗いまま反応しない。 玄関へ向かおうとすれば、廊下の奥で黒電話の影が揺れる。 鏡には文字が残り、時計はまだ午前三時十七分を示している。
どこへ逃げても、同じ時刻に戻される。
玲奈は、黒電話に近づいた。
ベルは鳴っていない。
それがかえって不気味だった。 鳴っていれば、まだ拒むことができる。耳を塞ぎ、叫び、壊そうとすることができる。 けれど今、電話は何もしていない。
ただ、そこにある。
そして、待っている。
玲奈は赤い紙片をつまみ上げた。
紙はひどく薄かった。和紙のようでもあり、古い封筒の裏紙のようでもあった。 けれど、指で触れた瞬間、玲奈はそれが紙ではないと感じた。
皮膚のようだった。
玲奈は紙片を落とした。
黒電話のダイヤルが、かすかに震えた。
カチ。
一つ、数字が戻るような音。
玲奈は後ずさった。
カチ。
また一つ。
ダイヤルは動いていない。
それなのに、音だけがしている。
まるで、目に見えない誰かが、ゆっくり番号を回しているようだった。
カチ。
カチ。
カチ。
音は七回続いた。
そのあと、受話器の下で小さな振動が始まった。
玲奈は耳を澄ました。
電話は鳴っていない。
しかし、受話器の向こうで呼び出し音がしていた。
ぷるるるる。
ぷるるるる。
それは、こちらにかかってくる音ではなかった。
こちらから、どこかへかけている音だった。
玲奈は何もしていない。
けれど電話は、もう発信していた。
ぷるるるる。
ぷるるるる。
台所の空気が少しずつ冷えていく。 流し台のステンレスに白い曇りが広がった。 窓ガラスの内側に水滴が浮かぶ。
玲奈は息を吐いた。
白かった。
ぷるるるる。
ぷるるるる。
どこへつながっているのか。
誰が出るのか。
玲奈は、受話器を取ってはいけないと分かっていた。
それでも、もし向こうで出るのが自分なら。
もし、あの悲鳴の前にいる自分なら。
もし、止められるなら。
その考えが浮かんだ瞬間、玲奈は電話の罠を理解した。
電話は怖がらせているだけではない。
助けられるかもしれないと思わせている。
だから人は出る。
だから人は、かける。
ぷるるるる。
呼び出し音が止まった。
玲奈は息を止めた。
受話器の向こうで、誰かが出た。
いや、正確には、誰かが出る音がした。
空気が開く音。
暗い部屋で、誰かが耳を近づける気配。
玲奈は受話器に触れていない。
それなのに、向こうの沈黙が台所に流れ込んできた。
そして、声がした。
玲奈の声だった。
けれど、今の玲奈の声ではない。
もっと疲れていた。もっと乾いていた。何日も眠っていない人間の声だった。 それでも、確かに玲奈の声だった。
玲奈は両手で口を押さえた。
受話器を取っていないのに、向こうの自分が出てしまった。
電話は、こちらからかけた。
そして、向こうの自分が出た。
受話器から声が続いた。
玲奈は答えなかった。
答えれば、つながってしまう。
もうつながっているのかもしれない。
戻って。
どこへ。
玲奈は黒電話を見下ろした。受話器は置かれたまま。 けれどそこから確かに声が出ている。 音は空気を震わせていない。耳ではなく、台所の壁や床や水滴そのものが声になっているようだった。
玲奈は震える声で言った。
その瞬間、台所のすべての水滴が一斉に震えた。
声が近くなった。
知っていた。
玲奈は、聞く前から知っていた。
それでも、その一言で体の中が冷たくなった。
黒電話のダイヤルが、ひとつ動いた。
玲奈は見た。
目に見えない指が、数字の穴に入っているように、ダイヤルがゆっくり回った。 一つの数字を選び、最後まで回し、戻る。
カチカチカチカチ。
声が言った。
玲奈は目を閉じた。
だが音で分かる。
ダイヤルが戻る音で、何番を回しているのか分かってしまう。 子どものころ、祖母の家にあった黒電話で遊んだ記憶が、勝手に蘇った。
指を入れる穴。
回す重さ。
戻るまで待つ時間。
番号は、手で覚えるものだった。
玲奈の頭の中に、数字が浮かんでいく。
七。
三。
一。
七。
三。
一。
七。
玲奈は耳を塞いだ。
それでも、ダイヤルの戻る音が骨に響く。
声が震えた。
黒電話のダイヤルが止まった。
台所の冷気が、さらに深くなった。
玲奈は目を開けた。
目の前の黒電話は、少し違っていた。
ダイヤルの中央に、白い顔が映っている。
玲奈の顔だった。
だが、その顔は泣いていた。
現実の玲奈は泣いていない。
ダイヤルの中の玲奈だけが、涙を流していた。
そして口を動かした。
玲奈は反射的に受話器へ手を伸ばした。
取るのではない。
置くために。
だが、受話器はすでに置かれている。
通話は始まっているのに、終わらせるための動作がない。
玲奈は電話本体をつかみ、床へ叩きつけようとした。
そのとき、向こうの声が叫んだ。
玲奈の手が止まった。
三回目。
鏡の文字。
まだ二回目。
玲奈はゆっくり電話から手を離した。
では、どうすればいい。
かけてもいない電話がかかり、取ってもいない受話器から声が聞こえ、 切ろうとすれば三回目になる。
玲奈は、息を殺して待った。
向こうの玲奈も、黙っていた。
二人の玲奈の間に、同じ沈黙が置かれた。
そして、遠くで何かが落ちる音がした。
カシャン。
最初の着信と同じ音だった。
玲奈は思わず叫んだ。
向こうの声が、すぐに返した。
その言葉のあと、悲鳴が始まった。
今度の悲鳴は、受話器の向こうだけではなかった。
台所の水滴が震え、窓ガラスが白く曇り、流し台の排水口から冷たい空気が吹き上がる。 床下から、壁の中から、天井裏から、同じ悲鳴が聞こえた。
玲奈は耳を塞いで膝をついた。
悲鳴の中に、自分の声がいくつも重なっている。
子どもの声。
大人の声。
泣きながら謝る声。
誰かの名前を呼ぶ声。
そして、その全部が最後に同じ言葉へ集まっていく。
出ないで。
出ないで。
玲奈は叫んだ。
悲鳴が止まった。
台所のすべてが静かになった。
黒電話のダイヤルだけが、まだ少し揺れていた。
玲奈は荒い息をついた。
窓の曇りが、ゆっくり消えていく。
そこに文字が残っていた。
玲奈は、窓の文字を読んだ。
家に戻る。
ここが家ではないのか。
それとも、まだ別の家があるのか。
黒電話が、初めて小さく鳴った。
ジリ。
一度だけ。
玲奈は動かなかった。
もう出ない。
そう決めた。
その瞬間、玄関の鍵が外れる音がした。
カチャ。
誰かが外から鍵を開けた。
玲奈は台所の床に座ったまま、廊下を見た。
玄関の戸が、ゆっくり開いた。
外は真っ暗だった。
その暗闇の中から、ベルの音が聞こえてきた。
遠い。
しかし確かに、近づいてくる。
ジリリリリリリリリリリリリ。
黒電話は、台所にはもうなかった。
玄関の外で鳴っていた。
そしてその向こうに、誰かが立っていた。
玲奈には顔が見えなかった。
ただ、その人影が受話器を持っていることだけは分かった。
人影は、暗闇の中で玲奈に向かって言った。