悪夢のような台所に現れた黒電話
Story / Chapter Four

二度目の電話

それは、もう着信ではなかった。
発信を待っていた。

第四章 台所 赤い紙片 発信

電話は鳴らなかった。
ただ、待っていた。
私が番号を回すのを。

第四章 / Phone.co.jp

次は、あなたからかける番。

赤い紙片には、そう書かれていた。

玲奈は台所の入口に立ったまま、その文字を見つめていた。 細く、几帳面で、古い日記に書かれたような字だった。 だが、インクではなかった。

紙の上に、文字だけが浮いている。

赤い。

乾いているのに、まだ濡れて見える赤だった。

黒電話は完全に元に戻っていた。 金槌で割ったはずのダイヤルも、欠けたはずの受話器も、何事もなかったように静かに置かれている。 ただ、さっき飛び散った破片だけが、台所の床に残っていた。

壊れた電話の破片。

壊れていない電話。

その二つが、同じ部屋にあった。

玲奈は、もう何を信じればいいのか分からなかった。

スマートフォンは使えなかった。画面は暗いまま反応しない。 玄関へ向かおうとすれば、廊下の奥で黒電話の影が揺れる。 鏡には文字が残り、時計はまだ午前三時十七分を示している。

どこへ逃げても、同じ時刻に戻される。

玲奈は、黒電話に近づいた。

ベルは鳴っていない。

それがかえって不気味だった。 鳴っていれば、まだ拒むことができる。耳を塞ぎ、叫び、壊そうとすることができる。 けれど今、電話は何もしていない。

ただ、そこにある。

そして、待っている。

玲奈は赤い紙片をつまみ上げた。

紙はひどく薄かった。和紙のようでもあり、古い封筒の裏紙のようでもあった。 けれど、指で触れた瞬間、玲奈はそれが紙ではないと感じた。

皮膚のようだった。

玲奈は紙片を落とした。

黒電話のダイヤルが、かすかに震えた。

カチ。

一つ、数字が戻るような音。

玲奈は後ずさった。

カチ。

また一つ。

ダイヤルは動いていない。

それなのに、音だけがしている。

まるで、目に見えない誰かが、ゆっくり番号を回しているようだった。

カチ。

カチ。

カチ。

音は七回続いた。

そのあと、受話器の下で小さな振動が始まった。

玲奈は耳を澄ました。

電話は鳴っていない。

しかし、受話器の向こうで呼び出し音がしていた。

ぷるるるる。

ぷるるるる。

それは、こちらにかかってくる音ではなかった。

こちらから、どこかへかけている音だった。

玲奈は何もしていない。

けれど電話は、もう発信していた。

ぷるるるる。

ぷるるるる。

台所の空気が少しずつ冷えていく。 流し台のステンレスに白い曇りが広がった。 窓ガラスの内側に水滴が浮かぶ。

玲奈は息を吐いた。

白かった。

ぷるるるる。

ぷるるるる。

どこへつながっているのか。

誰が出るのか。

玲奈は、受話器を取ってはいけないと分かっていた。

それでも、もし向こうで出るのが自分なら。

もし、あの悲鳴の前にいる自分なら。

もし、止められるなら。

その考えが浮かんだ瞬間、玲奈は電話の罠を理解した。

電話は怖がらせているだけではない。

助けられるかもしれないと思わせている。

だから人は出る。

だから人は、かける。

ぷるるるる。

呼び出し音が止まった。

玲奈は息を止めた。

受話器の向こうで、誰かが出た。

いや、正確には、誰かが出る音がした。

空気が開く音。

暗い部屋で、誰かが耳を近づける気配。

玲奈は受話器に触れていない。

それなのに、向こうの沈黙が台所に流れ込んできた。

そして、声がした。

「もしもし」

玲奈の声だった。

けれど、今の玲奈の声ではない。

もっと疲れていた。もっと乾いていた。何日も眠っていない人間の声だった。 それでも、確かに玲奈の声だった。

玲奈は両手で口を押さえた。

受話器を取っていないのに、向こうの自分が出てしまった。

電話は、こちらからかけた。

そして、向こうの自分が出た。

受話器から声が続いた。

「聞こえてる?」

玲奈は答えなかった。

答えれば、つながってしまう。

もうつながっているのかもしれない。

「お願い。まだなら、戻って」

戻って。

どこへ。

玲奈は黒電話を見下ろした。受話器は置かれたまま。 けれどそこから確かに声が出ている。 音は空気を震わせていない。耳ではなく、台所の壁や床や水滴そのものが声になっているようだった。

「三回目で、向こう側が開く」

玲奈は震える声で言った。

「あなたは、誰」

その瞬間、台所のすべての水滴が一斉に震えた。

声が近くなった。

「私」

知っていた。

玲奈は、聞く前から知っていた。

それでも、その一言で体の中が冷たくなった。

「でも、あなたじゃない。まだ、あなたじゃない」

黒電話のダイヤルが、ひとつ動いた。

玲奈は見た。

目に見えない指が、数字の穴に入っているように、ダイヤルがゆっくり回った。 一つの数字を選び、最後まで回し、戻る。

カチカチカチカチ。

声が言った。

「番号を覚えないで」

玲奈は目を閉じた。

だが音で分かる。

ダイヤルが戻る音で、何番を回しているのか分かってしまう。 子どものころ、祖母の家にあった黒電話で遊んだ記憶が、勝手に蘇った。

指を入れる穴。

回す重さ。

戻るまで待つ時間。

番号は、手で覚えるものだった。

玲奈の頭の中に、数字が浮かんでいく。

七。

三。

一。

七。

三。

一。

七。

玲奈は耳を塞いだ。

それでも、ダイヤルの戻る音が骨に響く。

「覚えたら、かけられる」

声が震えた。

「かけたら、向こうが覚える」

黒電話のダイヤルが止まった。

台所の冷気が、さらに深くなった。

玲奈は目を開けた。

目の前の黒電話は、少し違っていた。

ダイヤルの中央に、白い顔が映っている。

玲奈の顔だった。

だが、その顔は泣いていた。

現実の玲奈は泣いていない。

ダイヤルの中の玲奈だけが、涙を流していた。

そして口を動かした。

「切って」

玲奈は反射的に受話器へ手を伸ばした。

取るのではない。

置くために。

だが、受話器はすでに置かれている。

通話は始まっているのに、終わらせるための動作がない。

玲奈は電話本体をつかみ、床へ叩きつけようとした。

そのとき、向こうの声が叫んだ。

「それが三回目になる!」

玲奈の手が止まった。

三回目。

鏡の文字。

まだ二回目。

玲奈はゆっくり電話から手を離した。

では、どうすればいい。

かけてもいない電話がかかり、取ってもいない受話器から声が聞こえ、 切ろうとすれば三回目になる。

玲奈は、息を殺して待った。

向こうの玲奈も、黙っていた。

二人の玲奈の間に、同じ沈黙が置かれた。

そして、遠くで何かが落ちる音がした。

カシャン。

最初の着信と同じ音だった。

玲奈は思わず叫んだ。

「逃げて」

向こうの声が、すぐに返した。

「逃げたから、ここにいる」

その言葉のあと、悲鳴が始まった。

今度の悲鳴は、受話器の向こうだけではなかった。

台所の水滴が震え、窓ガラスが白く曇り、流し台の排水口から冷たい空気が吹き上がる。 床下から、壁の中から、天井裏から、同じ悲鳴が聞こえた。

玲奈は耳を塞いで膝をついた。

悲鳴の中に、自分の声がいくつも重なっている。

子どもの声。

大人の声。

泣きながら謝る声。

誰かの名前を呼ぶ声。

そして、その全部が最後に同じ言葉へ集まっていく。

出ないで。
出ないで。
出ないで。

玲奈は叫んだ。

「分かったから!」

悲鳴が止まった。

台所のすべてが静かになった。

黒電話のダイヤルだけが、まだ少し揺れていた。

玲奈は荒い息をついた。

窓の曇りが、ゆっくり消えていく。

そこに文字が残っていた。

最後は、家に戻る

玲奈は、窓の文字を読んだ。

家に戻る。

ここが家ではないのか。

それとも、まだ別の家があるのか。

黒電話が、初めて小さく鳴った。

ジリ。

一度だけ。

玲奈は動かなかった。

もう出ない。

そう決めた。

その瞬間、玄関の鍵が外れる音がした。

カチャ。

誰かが外から鍵を開けた。

玲奈は台所の床に座ったまま、廊下を見た。

玄関の戸が、ゆっくり開いた。

外は真っ暗だった。

その暗闇の中から、ベルの音が聞こえてきた。

遠い。

しかし確かに、近づいてくる。

ジリリリリリリリリリリリリ。

黒電話は、台所にはもうなかった。

玄関の外で鳴っていた。

そしてその向こうに、誰かが立っていた。

玲奈には顔が見えなかった。

ただ、その人影が受話器を持っていることだけは分かった。

人影は、暗闇の中で玲奈に向かって言った。

「最後の電話に出て」

二回目は、
出る電話ではなかった。
かけさせる電話だった。

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