鏡の中に映る女性の背後に現れる黒電話
Story / Chapter Three

出ないで

その声は、
未来から来たのではなかった。

第三章 留守番電話 警告

出ないで。
その言葉だけが、
何度も残っていた。

第三章 / Phone.co.jp

台所から、ダイヤルの戻る音がしていた。

カチ。

カチ。

カチ。

玲奈は寝室の入口で立ち尽くしていた。足の裏が冷たい。 廊下の向こうにある台所は暗く、そこに黒電話があるはずだった。 壊したはずの、黒電話が。

彼女はスマートフォンを拾った。

画面には、まだ留守番電話の表示が残っている。 発信元不明。録音時間十二秒。時刻は午前三時十七分。

時計は、まだ進んでいなかった。

玲奈は画面の時刻を見つめた。何度見ても、数字は変わらない。 三時十七分。台所へ行ったときも、電話を壊したときも、留守番電話を聞いたときも、 世界はその一分の中に閉じ込められている。

いや、一分ですらないのかもしれない。

電話が鳴る瞬間だけが、何度も繰り返されているのかもしれない。

台所から、また音がした。

カチ。

玲奈は、震える指で留守番電話をもう一度再生した。

最初は無音。

次に、金槌が床に落ちる音。

そして声。

「壊しても、戻るよ」

玲奈は再生を止めた。

声は玲奈に似ていた。だが、まったく同じではない。 自分の声を録音で聞いたときの違和感とは違う。もっと遠い。 長い時間、暗い場所で使われて、擦り切れてしまった声だった。

それは未来の自分かもしれない。

あるいは、もう未来と呼べない場所にいる自分かもしれない。

玲奈は廊下へ出た。

台所へ戻るつもりはなかった。玄関へ向かうつもりだった。 この家から出る。裸足でもいい。財布も荷物もいらない。 坂道を下って、誰かの家の灯りが見えるところまで行く。

そう決めた瞬間、廊下の奥でベルが鳴った。

ジリリリリリリリリリリリリ。

玲奈は足を止めた。

音は玄関のほうから聞こえた。

逃げ道に、電話がある。

彼女は、ゆっくり後ずさった。

背中が壁に触れた。壁は湿っていた。古い家の壁紙に、夜の冷気がしみ込んでいる。 玲奈は壁伝いに手を伸ばし、洗面所の戸を押した。

戸は音もなく開いた。

洗面所の鏡が、暗闇の中で薄く光っていた。

玲奈は電気をつけようとした。スイッチを押しても、何も起きない。 もう一度押す。暗いまま。

玄関のベル音は続いている。

ジリリリリリリリリリリリリ。

玲奈は鏡を見た。

鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。髪は乱れ、唇は白く、目だけが大きく開いている。 手にはスマートフォンを握っている。肩は震えている。

その背後に、黒電話が映っていた。

玲奈は振り返らなかった。

振り返ったら、そこに何もないことを知っていたからだ。 そして鏡の中にだけ存在するもののほうが、今はずっと怖かった。

鏡の中の黒電話は、洗面所の入口の床に置かれていた。 玄関で鳴っているはずのベル音が、その電話から聞こえているように見える。

鏡の中の玲奈は、ゆっくり後ろを向いた。

現実の玲奈は、動いていない。

だが鏡の中の玲奈は、黒電話の前にしゃがみ込んだ。

玲奈は息を止めた。

鏡の中の玲奈が、受話器へ手を伸ばす。

やめて。

玲奈はそう言おうとした。

声が出なかった。

鏡の中の手が、受話器に触れた。

ベルが止まった。

現実の家も、同時に静かになった。

鏡の中の玲奈は受話器を耳に当てた。

そして、こちらを見た。

目が合った。

鏡の中の玲奈は、口を開いた。

「出ないで」

その声は、鏡の中からではなかった。

玲奈のスマートフォンから聞こえた。

画面が勝手に点灯していた。留守番電話の再生画面。 さっき止めたはずの録音が、また再生されている。

「出ないで」

同じ声。少し違う声。玲奈の声であり、玲奈ではない声。

玲奈はスマートフォンを床に投げた。

画面は割れなかった。

再生は止まらなかった。

「出ないで。出ないで。出ないで」

鏡の中の玲奈は、まだ受話器を握っている。

現実の玲奈は、鏡に向かって叫んだ。

「じゃあ、どうすればいいの」

鏡の中の玲奈は、ゆっくり首を振った。

知らない。

そう言っているように見えた。

玲奈は洗面台に手をついた。古い陶器の冷たさが掌に刺さる。 鏡の中では、黒電話のコードがゆっくり伸びていた。

最初は短かったコードが、蛇のように床を這い、洗面所の入口を越え、廊下へ伸びていく。 どこにもつながっていなかったはずの線が、鏡の中だけで長くなっている。

玲奈は振り返った。

現実の床にも、コードがあった。

黒い線が、洗面所の入口から廊下へ伸びている。 それは台所のほうから来ているのか、玄関のほうから来ているのか分からない。 ただ、床の上をゆっくり動いている。

玲奈の足首に触れた。

冷たかった。

彼女は悲鳴をあげて足を引いた。

その悲鳴が、鏡の中の受話器から聞こえた。

玲奈は口を押さえた。

今の悲鳴は、自分が出した。

そして同時に、電話の向こうからも聞こえた。

現実と録音が、重なり始めている。

玲奈はスマートフォンを拾おうとした。

その画面に、新しい通知が表示された。

留守番電話。

発信元不明。

録音時間、十八秒。

時刻、午前三時十七分。

玲奈は再生ボタンに触れていない。

それなのに、録音が流れ始めた。

ざざ……
ざざざ……
「聞いて」
ざざ……
「一回目は、出てもいい」
ざざざ……
「二回目は、だめ」
ざざ……
「三回目は、もう向こうにいる」

玲奈は、録音を止めようとした。

指が画面をすり抜けた。

画面の光が、水面のように揺れている。

スマートフォンの中に、洗面所の鏡と同じ暗闇が映っていた。

その中に、黒電話がある。

その前に、誰かが座っている。

玲奈だった。

けれど今の玲奈ではない。

髪は濡れていて、顔は見えず、肩が小さく震えている。 受話器を握りしめたまま、こちらに背を向けている。

その玲奈が、ゆっくり言った。

「三回目で、私になる」

スマートフォンの画面が消えた。

洗面所も、廊下も、家全体も、急に音を取り戻した。 冷蔵庫の低い唸り。木の鳴る音。遠くの風。

そして台所から、最後に一度だけ、ダイヤルの戻る音がした。

カチ。

玲奈は、鏡を見た。

鏡の中には、もう黒電話は映っていなかった。

代わりに、鏡の右下に、小さな文字が書かれていた。

指でなぞったような、曇った文字。

まだ二回目

玲奈は、その場に崩れ落ちた。

逃げなければならない。

でも、どこへ。

電話が場所を選ばないなら、外へ出ても同じだ。 玄関で鳴り、台所で鳴り、鏡の中で鳴り、スマートフォンの中で鳴る。

出ないで。

その言葉は、もう警告ではなかった。

玲奈には分かった。

それは、後悔だった。

どこかの自分が、もう取り返しのつかない場所から、 まだこちら側にいる自分へ送っている後悔だった。

そのとき、家の中で明かりが一つだけ点いた。

台所だった。

玲奈は立ち上がった。

台所の床には、壊したはずの黒電話が置かれていた。

完全に元に戻っていた。

ただ一つだけ、さっきとは違っていた。

ダイヤルの中央に、赤い紙片が挟まっている。

玲奈は近づいた。

紙片には、細い字でこう書かれていた。

次は、あなたからかける番。

電話は、
かかってくるものではない。
かけさせるものだった。

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