台所から、ダイヤルの戻る音がしていた。
カチ。
カチ。
カチ。
玲奈は寝室の入口で立ち尽くしていた。足の裏が冷たい。 廊下の向こうにある台所は暗く、そこに黒電話があるはずだった。 壊したはずの、黒電話が。
彼女はスマートフォンを拾った。
画面には、まだ留守番電話の表示が残っている。 発信元不明。録音時間十二秒。時刻は午前三時十七分。
時計は、まだ進んでいなかった。
玲奈は画面の時刻を見つめた。何度見ても、数字は変わらない。 三時十七分。台所へ行ったときも、電話を壊したときも、留守番電話を聞いたときも、 世界はその一分の中に閉じ込められている。
いや、一分ですらないのかもしれない。
電話が鳴る瞬間だけが、何度も繰り返されているのかもしれない。
台所から、また音がした。
カチ。
玲奈は、震える指で留守番電話をもう一度再生した。
最初は無音。
次に、金槌が床に落ちる音。
そして声。
玲奈は再生を止めた。
声は玲奈に似ていた。だが、まったく同じではない。 自分の声を録音で聞いたときの違和感とは違う。もっと遠い。 長い時間、暗い場所で使われて、擦り切れてしまった声だった。
それは未来の自分かもしれない。
あるいは、もう未来と呼べない場所にいる自分かもしれない。
玲奈は廊下へ出た。
台所へ戻るつもりはなかった。玄関へ向かうつもりだった。 この家から出る。裸足でもいい。財布も荷物もいらない。 坂道を下って、誰かの家の灯りが見えるところまで行く。
そう決めた瞬間、廊下の奥でベルが鳴った。
ジリリリリリリリリリリリリ。
玲奈は足を止めた。
音は玄関のほうから聞こえた。
逃げ道に、電話がある。
彼女は、ゆっくり後ずさった。
背中が壁に触れた。壁は湿っていた。古い家の壁紙に、夜の冷気がしみ込んでいる。 玲奈は壁伝いに手を伸ばし、洗面所の戸を押した。
戸は音もなく開いた。
洗面所の鏡が、暗闇の中で薄く光っていた。
玲奈は電気をつけようとした。スイッチを押しても、何も起きない。 もう一度押す。暗いまま。
玄関のベル音は続いている。
ジリリリリリリリリリリリリ。
玲奈は鏡を見た。
鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。髪は乱れ、唇は白く、目だけが大きく開いている。 手にはスマートフォンを握っている。肩は震えている。
その背後に、黒電話が映っていた。
玲奈は振り返らなかった。
振り返ったら、そこに何もないことを知っていたからだ。 そして鏡の中にだけ存在するもののほうが、今はずっと怖かった。
鏡の中の黒電話は、洗面所の入口の床に置かれていた。 玄関で鳴っているはずのベル音が、その電話から聞こえているように見える。
鏡の中の玲奈は、ゆっくり後ろを向いた。
現実の玲奈は、動いていない。
だが鏡の中の玲奈は、黒電話の前にしゃがみ込んだ。
玲奈は息を止めた。
鏡の中の玲奈が、受話器へ手を伸ばす。
やめて。
玲奈はそう言おうとした。
声が出なかった。
鏡の中の手が、受話器に触れた。
ベルが止まった。
現実の家も、同時に静かになった。
鏡の中の玲奈は受話器を耳に当てた。
そして、こちらを見た。
目が合った。
鏡の中の玲奈は、口を開いた。
その声は、鏡の中からではなかった。
玲奈のスマートフォンから聞こえた。
画面が勝手に点灯していた。留守番電話の再生画面。 さっき止めたはずの録音が、また再生されている。
「出ないで」
同じ声。少し違う声。玲奈の声であり、玲奈ではない声。
玲奈はスマートフォンを床に投げた。
画面は割れなかった。
再生は止まらなかった。
鏡の中の玲奈は、まだ受話器を握っている。
現実の玲奈は、鏡に向かって叫んだ。
鏡の中の玲奈は、ゆっくり首を振った。
知らない。
そう言っているように見えた。
玲奈は洗面台に手をついた。古い陶器の冷たさが掌に刺さる。 鏡の中では、黒電話のコードがゆっくり伸びていた。
最初は短かったコードが、蛇のように床を這い、洗面所の入口を越え、廊下へ伸びていく。 どこにもつながっていなかったはずの線が、鏡の中だけで長くなっている。
玲奈は振り返った。
現実の床にも、コードがあった。
黒い線が、洗面所の入口から廊下へ伸びている。 それは台所のほうから来ているのか、玄関のほうから来ているのか分からない。 ただ、床の上をゆっくり動いている。
玲奈の足首に触れた。
冷たかった。
彼女は悲鳴をあげて足を引いた。
その悲鳴が、鏡の中の受話器から聞こえた。
玲奈は口を押さえた。
今の悲鳴は、自分が出した。
そして同時に、電話の向こうからも聞こえた。
現実と録音が、重なり始めている。
玲奈はスマートフォンを拾おうとした。
その画面に、新しい通知が表示された。
留守番電話。
発信元不明。
録音時間、十八秒。
時刻、午前三時十七分。
玲奈は再生ボタンに触れていない。
それなのに、録音が流れ始めた。
ざざざ……
「聞いて」
ざざ……
「一回目は、出てもいい」
ざざざ……
「二回目は、だめ」
ざざ……
「三回目は、もう向こうにいる」
玲奈は、録音を止めようとした。
指が画面をすり抜けた。
画面の光が、水面のように揺れている。
スマートフォンの中に、洗面所の鏡と同じ暗闇が映っていた。
その中に、黒電話がある。
その前に、誰かが座っている。
玲奈だった。
けれど今の玲奈ではない。
髪は濡れていて、顔は見えず、肩が小さく震えている。 受話器を握りしめたまま、こちらに背を向けている。
その玲奈が、ゆっくり言った。
スマートフォンの画面が消えた。
洗面所も、廊下も、家全体も、急に音を取り戻した。 冷蔵庫の低い唸り。木の鳴る音。遠くの風。
そして台所から、最後に一度だけ、ダイヤルの戻る音がした。
カチ。
玲奈は、鏡を見た。
鏡の中には、もう黒電話は映っていなかった。
代わりに、鏡の右下に、小さな文字が書かれていた。
指でなぞったような、曇った文字。
玲奈は、その場に崩れ落ちた。
逃げなければならない。
でも、どこへ。
電話が場所を選ばないなら、外へ出ても同じだ。 玄関で鳴り、台所で鳴り、鏡の中で鳴り、スマートフォンの中で鳴る。
出ないで。
その言葉は、もう警告ではなかった。
玲奈には分かった。
それは、後悔だった。
どこかの自分が、もう取り返しのつかない場所から、 まだこちら側にいる自分へ送っている後悔だった。
そのとき、家の中で明かりが一つだけ点いた。
台所だった。
玲奈は立ち上がった。
台所の床には、壊したはずの黒電話が置かれていた。
完全に元に戻っていた。
ただ一つだけ、さっきとは違っていた。
ダイヤルの中央に、赤い紙片が挟まっている。
玲奈は近づいた。
紙片には、細い字でこう書かれていた。