台所から電話が鳴っていた。
玲奈は畳の上に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
居間の中央には、黒電話がある。
そう思っていた。
けれど、目の前には何もなかった。
さっきまでそこにあった黒電話が、消えていた。受話器も、コードも、本体も、畳に残っていたはずの黒い影さえない。 ただ、彼女が膝をついた跡だけが畳に残っていた。
台所のほうで、ベルが鳴り続けている。
ジリリリリリリリリリリリリ。
玲奈は立ち上がろうとした。膝が笑った。手を畳についたとき、指先が冷たいものに触れた。
水だった。
畳の上に、小さな水滴が落ちていた。
丸い跡がいくつか。黒電話があった場所を囲むように、薄く濡れている。 雨漏りではない。天井は乾いている。窓も閉まっている。
玲奈は指先を見た。
水滴は、ひどく冷たかった。
台所のベルが、少し大きくなった。
ジリリリリリリリリリリリリ。
それは催促しているようだった。
早く来い、と。
玲奈は壁に手をつきながら廊下へ出た。廊下は暗く、寝室のほうへ続く奥は黒く沈んでいる。 さっき窓に映っていた、もう一台の黒電話のことを思い出した。
あれは映り込みだったのか。
それとも、本当に廊下にあったのか。
玲奈は台所へ向かった。
一歩進むたびに、床板が鳴った。古い家の音だった。けれど今は、その音さえ自分のものではないように聞こえた。 誰かが、玲奈の歩く音を真似しているようだった。
台所の入口で、彼女は立ち止まった。
電気は消えている。
流し台の横、食器棚の前、まだ片づけていない段ボールの上に、黒電話が置かれていた。
居間にあったものと同じだった。
同じ傷。同じ丸いダイヤル。同じ重そうな受話器。
いや、同じものだった。
玲奈には分かった。なぜ分かったのかは分からない。 けれど、あの電話は移動してきたのではない。あの電話は、居間から消え、台所に現れたのだ。
ベルは鳴っている。
だが受話器は揺れていない。
黒電話の周りだけ、空気が少し歪んでいるように見えた。台所の薄暗い光が、電話の表面で鈍く曲がる。 まるで黒い水を見ているようだった。
玲奈は言った。
ベルは止まらなかった。
ジリリリリリリリリリリリリ。
玲奈はもう一度言った。
その瞬間、ベルの音が変わった。
金属のベル音に、別の音が混ざった。かすかな息。低い擦過音。 受話器を取っていないのに、電話の向こう側が近づいてくる。
玲奈は後ずさった。
背中が冷蔵庫に当たった。冷蔵庫のモーター音は止まっていた。 家の中の電気製品が、すべて死んだように静まり返っている。
黒電話だけが生きていた。
玲奈は段ボール箱に手を伸ばした。引っ越しの荷物の中に、工具が入っている。 カッターナイフ。ガムテープ。古い金槌。
金槌をつかんだ。
自分でも、何をしようとしているのか分かっていた。
壊す。
こんなものを、家の中に置いておけない。
玲奈は金槌を振り上げた。
ベルが一瞬だけ止まった。
その静けさの中で、受話器から声がした。
玲奈の手が止まった。
今の声は、悲鳴ではなかった。
小さな声だった。乾いた、近い、震えている声。 それは玲奈の声に似ていた。けれど、さっきの悲鳴より若く聞こえた。
子どものころの自分の声。
そう思った瞬間、玲奈は息が詰まった。
彼女は金槌を下ろせなかった。
電話は、黙っていた。
台所の窓に、玲奈の姿が映っている。片手に金槌を持ち、もう片方の手を胸に当てている。 段ボールの上の黒電話は、窓の中にも映っている。
その電話の受話器が、窓の中でだけ、少し浮いていた。
玲奈は振り返った。
現実の黒電話の受話器は、台の上に乗ったままだった。
窓に映る受話器だけが、ゆっくり持ち上がっていく。
見えない手が取っているようだった。
玲奈は窓から目を離せなかった。
窓の中の受話器は、空中で止まった。
そして、窓の中の玲奈が、こちらを見た。
現実の玲奈は、まだ黒電話を見ていた。
しかし窓に映る玲奈は、こちらを見ていた。
口が動いた。
その声は、窓からではなく、黒電話から聞こえた。
玲奈は金槌を落とした。
床に落ちた音が、異様に大きく響いた。
その音で、ベルがまた鳴り始めた。
ジリリリリリリリリリリリリ。
玲奈は両耳を塞いだ。
だが音は、手の内側から聞こえた。
耳ではなく、骨の中で鳴っている。
黒電話は段ボールの上で鳴り続ける。コードはどこにもつながっていない。 それなのに、ベルの音は台所の壁、床、窓ガラス、玲奈の歯の奥からも聞こえた。
玲奈は突然、怒りを覚えた。
怖いよりも先に、腹が立った。
誰が、こんなことをするのか。
何のために、自分の声で自分を脅すのか。
彼女は金槌を拾った。
今度は、声を聞く前に振り下ろした。
ガン。
金槌は、受話器の端に当たった。
黒電話が段ボールの上で跳ねた。ベルが歪んだ音を立てる。 玲奈はもう一度振り下ろした。
ガン。
今度はダイヤルの上に当たった。
丸い穴の一つが欠けた。黒い破片が床に飛んだ。
ベルは止まった。
玲奈は荒い息をつきながら、壊れた黒電話を見下ろした。
電話は動かなかった。
音もしなかった。
台所は、ようやく普通の台所に戻ったように見えた。
玲奈は破片を拾おうとして、手を止めた。
黒い破片の内側が、赤かった。
樹脂の中が赤い。
まるで、黒い皮の下に赤い肉があるようだった。
玲奈は後ずさった。
そのとき、寝室からスマートフォンの通知音が鳴った。
玲奈は飛び上がった。
スマートフォンの音だった。いつもの、短い電子音。 それを聞いて、玲奈は自分がどれほど緊張していたかを知った。
彼女は台所を出て、寝室へ走った。
布団の横に置いたスマートフォンの画面が、暗い部屋の中で光っていた。
通知は一件。
発信元不明の留守番電話。
玲奈は画面を見つめた。
時刻は、午前三時十七分。
さっきと同じ時刻だった。
いや、違う。
時計が進んでいなかった。
台所で電話を壊していた時間も、廊下を歩いた時間も、悲鳴を聞いた時間も、 すべて午前三時十七分の中で起きていた。
玲奈は震える指で、留守番電話を再生した。
最初は無音だった。
次に、遠くで金槌が床に落ちる音がした。
そして、女の声がした。
玲奈はスマートフォンを落とした。
台所のほうで、何かが鳴った。
ベルではない。
カチ。
ダイヤルが、ひとつ戻る音だった。
カチ。
もうひとつ。
カチ。
玲奈は寝室の入口に立ったまま、台所の暗闇を見つめた。
壊れたはずの電話が、自分で直っている。
そう思った瞬間、彼女は理解した。
あれは、電話ではない。
電話の形をしているだけだ。
何かが、電話の形を選んでいる。
人間が出てしまう形を。