黒い受話器とコードが暗闇に浮かぶ黒電話
Story / Chapter Two

黒電話

そこにあった電話は、
もうそこにはなかった。

第二章 消えた電話 台所のベル 濡れた受話器

物は、
自分で場所を変えない。
それが普通なら。

第二章 / Phone.co.jp

台所から電話が鳴っていた。

玲奈は畳の上に座り込んだまま、しばらく動けなかった。

居間の中央には、黒電話がある。

そう思っていた。

けれど、目の前には何もなかった。

さっきまでそこにあった黒電話が、消えていた。受話器も、コードも、本体も、畳に残っていたはずの黒い影さえない。 ただ、彼女が膝をついた跡だけが畳に残っていた。

台所のほうで、ベルが鳴り続けている。

ジリリリリリリリリリリリリ。

玲奈は立ち上がろうとした。膝が笑った。手を畳についたとき、指先が冷たいものに触れた。

水だった。

畳の上に、小さな水滴が落ちていた。

丸い跡がいくつか。黒電話があった場所を囲むように、薄く濡れている。 雨漏りではない。天井は乾いている。窓も閉まっている。

玲奈は指先を見た。

水滴は、ひどく冷たかった。

台所のベルが、少し大きくなった。

ジリリリリリリリリリリリリ。

それは催促しているようだった。

早く来い、と。

玲奈は壁に手をつきながら廊下へ出た。廊下は暗く、寝室のほうへ続く奥は黒く沈んでいる。 さっき窓に映っていた、もう一台の黒電話のことを思い出した。

あれは映り込みだったのか。

それとも、本当に廊下にあったのか。

玲奈は台所へ向かった。

一歩進むたびに、床板が鳴った。古い家の音だった。けれど今は、その音さえ自分のものではないように聞こえた。 誰かが、玲奈の歩く音を真似しているようだった。

台所の入口で、彼女は立ち止まった。

電気は消えている。

流し台の横、食器棚の前、まだ片づけていない段ボールの上に、黒電話が置かれていた。

居間にあったものと同じだった。

同じ傷。同じ丸いダイヤル。同じ重そうな受話器。

いや、同じものだった。

玲奈には分かった。なぜ分かったのかは分からない。 けれど、あの電話は移動してきたのではない。あの電話は、居間から消え、台所に現れたのだ。

ベルは鳴っている。

だが受話器は揺れていない。

黒電話の周りだけ、空気が少し歪んでいるように見えた。台所の薄暗い光が、電話の表面で鈍く曲がる。 まるで黒い水を見ているようだった。

玲奈は言った。

「もう出ない」

ベルは止まらなかった。

ジリリリリリリリリリリリリ。

玲奈はもう一度言った。

「出ないって言ってるでしょ」

その瞬間、ベルの音が変わった。

金属のベル音に、別の音が混ざった。かすかな息。低い擦過音。 受話器を取っていないのに、電話の向こう側が近づいてくる。

玲奈は後ずさった。

背中が冷蔵庫に当たった。冷蔵庫のモーター音は止まっていた。 家の中の電気製品が、すべて死んだように静まり返っている。

黒電話だけが生きていた。

玲奈は段ボール箱に手を伸ばした。引っ越しの荷物の中に、工具が入っている。 カッターナイフ。ガムテープ。古い金槌。

金槌をつかんだ。

自分でも、何をしようとしているのか分かっていた。

壊す。

こんなものを、家の中に置いておけない。

玲奈は金槌を振り上げた。

ベルが一瞬だけ止まった。

その静けさの中で、受話器から声がした。

「やめて」

玲奈の手が止まった。

今の声は、悲鳴ではなかった。

小さな声だった。乾いた、近い、震えている声。 それは玲奈の声に似ていた。けれど、さっきの悲鳴より若く聞こえた。

子どものころの自分の声。

そう思った瞬間、玲奈は息が詰まった。

彼女は金槌を下ろせなかった。

電話は、黙っていた。

台所の窓に、玲奈の姿が映っている。片手に金槌を持ち、もう片方の手を胸に当てている。 段ボールの上の黒電話は、窓の中にも映っている。

その電話の受話器が、窓の中でだけ、少し浮いていた。

玲奈は振り返った。

現実の黒電話の受話器は、台の上に乗ったままだった。

窓に映る受話器だけが、ゆっくり持ち上がっていく。

見えない手が取っているようだった。

玲奈は窓から目を離せなかった。

窓の中の受話器は、空中で止まった。

そして、窓の中の玲奈が、こちらを見た。

現実の玲奈は、まだ黒電話を見ていた。

しかし窓に映る玲奈は、こちらを見ていた。

口が動いた。

出ないで。

その声は、窓からではなく、黒電話から聞こえた。

玲奈は金槌を落とした。

床に落ちた音が、異様に大きく響いた。

その音で、ベルがまた鳴り始めた。

ジリリリリリリリリリリリリ。

玲奈は両耳を塞いだ。

だが音は、手の内側から聞こえた。

耳ではなく、骨の中で鳴っている。

黒電話は段ボールの上で鳴り続ける。コードはどこにもつながっていない。 それなのに、ベルの音は台所の壁、床、窓ガラス、玲奈の歯の奥からも聞こえた。

玲奈は突然、怒りを覚えた。

怖いよりも先に、腹が立った。

誰が、こんなことをするのか。

何のために、自分の声で自分を脅すのか。

彼女は金槌を拾った。

今度は、声を聞く前に振り下ろした。

ガン。

金槌は、受話器の端に当たった。

黒電話が段ボールの上で跳ねた。ベルが歪んだ音を立てる。 玲奈はもう一度振り下ろした。

ガン。

今度はダイヤルの上に当たった。

丸い穴の一つが欠けた。黒い破片が床に飛んだ。

ベルは止まった。

玲奈は荒い息をつきながら、壊れた黒電話を見下ろした。

電話は動かなかった。

音もしなかった。

台所は、ようやく普通の台所に戻ったように見えた。

玲奈は破片を拾おうとして、手を止めた。

黒い破片の内側が、赤かった。

樹脂の中が赤い。

まるで、黒い皮の下に赤い肉があるようだった。

玲奈は後ずさった。

そのとき、寝室からスマートフォンの通知音が鳴った。

玲奈は飛び上がった。

スマートフォンの音だった。いつもの、短い電子音。 それを聞いて、玲奈は自分がどれほど緊張していたかを知った。

彼女は台所を出て、寝室へ走った。

布団の横に置いたスマートフォンの画面が、暗い部屋の中で光っていた。

通知は一件。

発信元不明の留守番電話。

玲奈は画面を見つめた。

時刻は、午前三時十七分。

さっきと同じ時刻だった。

いや、違う。

時計が進んでいなかった。

台所で電話を壊していた時間も、廊下を歩いた時間も、悲鳴を聞いた時間も、 すべて午前三時十七分の中で起きていた。

玲奈は震える指で、留守番電話を再生した。

最初は無音だった。

次に、遠くで金槌が床に落ちる音がした。

そして、女の声がした。

「壊しても、戻るよ」

玲奈はスマートフォンを落とした。

台所のほうで、何かが鳴った。

ベルではない。

カチ。

ダイヤルが、ひとつ戻る音だった。

カチ。

もうひとつ。

カチ。

玲奈は寝室の入口に立ったまま、台所の暗闇を見つめた。

壊れたはずの電話が、自分で直っている。

そう思った瞬間、彼女は理解した。

あれは、電話ではない。

電話の形をしているだけだ。

何かが、電話の形を選んでいる。

人間が出てしまう形を。

壊したはずのものが、
自分で直る音を、
彼女は聞いてしまった。

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