玲奈は、黒電話の前に膝をついた。
受話器に触れた瞬間、ベルは止まった。さっきまで家全体を揺らしていたような音が、 まるで最初から存在しなかったように消えた。
その静けさのほうが、ずっと怖かった。
古い家には、必ず何かしら音がある。柱が鳴る。壁が鳴る。冷蔵庫が低く唸る。 遠くで木の枝が窓をこする。だが今は、その全部が消えていた。
家が、息を止めている。
玲奈はそう思った。
受話器は重かった。見た目よりもずっと重く、手の中へ沈んでくるようだった。 黒い樹脂の表面は冷たく、湿っているわけではないのに、指先に水気のような感触が残った。
彼女は受話器を少し持ち上げた。
コードが畳の上で、かすかに動いた。
電話線はない。壁へ伸びるコードもない。電話機の後ろから出ている黒い線は、 畳の上で短く丸まっているだけだった。どこにもつながっていない。
どこにもつながっていないのに、電話は鳴った。
玲奈はその事実を、頭の中で何度も繰り返した。
どこにもつながっていない。
どこにも。
では、この受話器の向こうには何があるのか。
受話器を耳に当てるまで、玲奈はまだ引き返せた。
けれど引き返すには、もう音を聞きすぎていた。黒電話を見てしまった。 触れてしまった。ベルが止まる瞬間を、手の中で感じてしまった。
ここで受話器を置いたとしても、眠れるわけがない。
玲奈は、ゆっくりと受話器を耳に当てた。
何も聞こえなかった。
まったくの無音だった。
普通の電話なら、どこかに小さな電気の気配がある。遠い機械の唸り、回線のざらつき、 耳の奥に触れる細いノイズ。けれどその受話器には、そういうものが何もなかった。
音がない、というより、音が吸い込まれていた。
玲奈は息を止めた。
その瞬間、自分がどれほど震えているか分かった。
受話器を握る手が震えている。膝が畳に触れているのに、体が安定しない。 背中の後ろには暗い廊下があり、その奥には自分がさっき出てきた寝室がある。
何かが後ろに立っていたとしても、振り向けない。
玲奈は小さく言った。
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
受話器の中ではなく、廊下の奥から聞こえたような気がした。
玲奈はもう一度言おうとした。
けれど、声が出なかった。
無音が続いている。
玲奈は、なぜか秒数を数え始めた。
一。
二。
三。
数えることで、何かを保てる気がした。自分の体がここにあること。 自分がこの家の居間にいて、真夜中に古い電話の受話器を持っていること。 それが現実であること。
七。
八。
九。
そのころから、玲奈は妙なことに気づいた。
無音なのに、耳が痛い。
大きな音を聞いているときの痛みではない。もっと内側に押されるような痛みだった。 受話器から何かが出ているのではなく、受話器が玲奈の中から音を探しているようだった。
十三。
十四。
十五。
突然、遠くで何かが落ちる音がした。
カシャン。
ガラスではない。陶器でもない。もっと薄いもの。小さな皿か、写真立てのガラスか。 家の中から聞こえたのか、受話器の中から聞こえたのか分からなかった。
玲奈は顔を上げた。
居間の暗闇は、さっきより濃くなっていた。
窓の外は真っ黒で、ガラスには玲奈の姿が映っている。 畳の上に膝をつき、受話器を耳に当てている自分。
その背後に、何かが映っていた。
玲奈は息を吸い込んだ。
映っていたのは、人ではなかった。
電話だった。
窓ガラスの中、玲奈の背後に、もう一台の黒電話が置かれていた。 それは廊下の暗がりに、低く、静かに、こちらを向いていた。
玲奈はゆっくり振り返った。
廊下には何もなかった。
もう一度、窓を見る。
映っていた黒電話も消えていた。
そのとき、受話器の向こうで息が聞こえた。
近かった。
あまりにも近かった。
誰かが電話の向こうで息をしているというより、玲奈の耳のすぐ奥で、 もう一つの肺が膨らんでいるようだった。
玲奈は受話器を離そうとした。
しかし手が動かなかった。
指が受話器に貼りついている。冷たさが皮膚を越えて骨まで入っていた。
そして、悲鳴が聞こえた。
女の悲鳴だった。
喉が裂けるほどの、長い悲鳴だった。
玲奈は受話器を落とした。
受話器は畳の上に落ちるはずだった。
しかし落ちなかった。
コードに吊られたまま、ゆっくり揺れた。
悲鳴はまだ続いていた。
玲奈は耳を塞いだ。
それでも聞こえた。
受話器からではなかった。部屋の中からでもなかった。
頭の奥で、直接鳴っていた。
玲奈はそのとき、初めて理解した。
あれは、知らない女の声ではない。
自分の声だった。
まだ叫んでいない自分の声。
どこかで、これから叫ぶはずの自分の声。
そしてその声は、悲鳴の最後に、はっきりと言った。
玲奈は畳の上に座り込んだ。
受話器は、まだ揺れている。
黒電話の本体は、静かだった。
玲奈は震える手でスマートフォンを探した。寝室に置いてきたことを思い出した。 立ち上がろうとしたが、膝に力が入らなかった。
受話器の揺れが、少しずつ小さくなっていく。
その揺れが止まったら、何かが終わる気がした。
あるいは、何かが始まる気がした。
玲奈は目をそらせなかった。
やがて受話器は、ゆっくりと止まった。
その瞬間、家のどこかで、別のベルが鳴った。
ジリリリリリリリリリリリリ。
今度は、台所からだった。