午前三時十七分、暗い空き家の廊下に鳴る黒電話
Story / Chapter One

最初の着信

受話器を取ると、
音は消えた。

第一章 十八秒の沈黙 もしもし 声の前

電話が鳴っている間は、
まだ安全だった。
本当に怖いのは、止まった後だった。

第一章 / Phone.co.jp

玲奈は、黒電話の前に膝をついた。

受話器に触れた瞬間、ベルは止まった。さっきまで家全体を揺らしていたような音が、 まるで最初から存在しなかったように消えた。

その静けさのほうが、ずっと怖かった。

古い家には、必ず何かしら音がある。柱が鳴る。壁が鳴る。冷蔵庫が低く唸る。 遠くで木の枝が窓をこする。だが今は、その全部が消えていた。

家が、息を止めている。

玲奈はそう思った。

受話器は重かった。見た目よりもずっと重く、手の中へ沈んでくるようだった。 黒い樹脂の表面は冷たく、湿っているわけではないのに、指先に水気のような感触が残った。

彼女は受話器を少し持ち上げた。

コードが畳の上で、かすかに動いた。

電話線はない。壁へ伸びるコードもない。電話機の後ろから出ている黒い線は、 畳の上で短く丸まっているだけだった。どこにもつながっていない。

どこにもつながっていないのに、電話は鳴った。

玲奈はその事実を、頭の中で何度も繰り返した。

どこにもつながっていない。

どこにも。

では、この受話器の向こうには何があるのか。

受話器を耳に当てるまで、玲奈はまだ引き返せた。

けれど引き返すには、もう音を聞きすぎていた。黒電話を見てしまった。 触れてしまった。ベルが止まる瞬間を、手の中で感じてしまった。

ここで受話器を置いたとしても、眠れるわけがない。

玲奈は、ゆっくりと受話器を耳に当てた。

何も聞こえなかった。

まったくの無音だった。

普通の電話なら、どこかに小さな電気の気配がある。遠い機械の唸り、回線のざらつき、 耳の奥に触れる細いノイズ。けれどその受話器には、そういうものが何もなかった。

音がない、というより、音が吸い込まれていた。

玲奈は息を止めた。

その瞬間、自分がどれほど震えているか分かった。

受話器を握る手が震えている。膝が畳に触れているのに、体が安定しない。 背中の後ろには暗い廊下があり、その奥には自分がさっき出てきた寝室がある。

何かが後ろに立っていたとしても、振り向けない。

玲奈は小さく言った。

「もしもし」

自分の声が、ひどく遠く聞こえた。

受話器の中ではなく、廊下の奥から聞こえたような気がした。

玲奈はもう一度言おうとした。

けれど、声が出なかった。

無音が続いている。

玲奈は、なぜか秒数を数え始めた。

一。

二。

三。

数えることで、何かを保てる気がした。自分の体がここにあること。 自分がこの家の居間にいて、真夜中に古い電話の受話器を持っていること。 それが現実であること。

七。

八。

九。

そのころから、玲奈は妙なことに気づいた。

無音なのに、耳が痛い。

大きな音を聞いているときの痛みではない。もっと内側に押されるような痛みだった。 受話器から何かが出ているのではなく、受話器が玲奈の中から音を探しているようだった。

十三。

十四。

十五。

突然、遠くで何かが落ちる音がした。

カシャン。

ガラスではない。陶器でもない。もっと薄いもの。小さな皿か、写真立てのガラスか。 家の中から聞こえたのか、受話器の中から聞こえたのか分からなかった。

玲奈は顔を上げた。

居間の暗闇は、さっきより濃くなっていた。

窓の外は真っ黒で、ガラスには玲奈の姿が映っている。 畳の上に膝をつき、受話器を耳に当てている自分。

その背後に、何かが映っていた。

玲奈は息を吸い込んだ。

映っていたのは、人ではなかった。

電話だった。

窓ガラスの中、玲奈の背後に、もう一台の黒電話が置かれていた。 それは廊下の暗がりに、低く、静かに、こちらを向いていた。

玲奈はゆっくり振り返った。

廊下には何もなかった。

もう一度、窓を見る。

映っていた黒電話も消えていた。

そのとき、受話器の向こうで息が聞こえた。

近かった。

あまりにも近かった。

誰かが電話の向こうで息をしているというより、玲奈の耳のすぐ奥で、 もう一つの肺が膨らんでいるようだった。

玲奈は受話器を離そうとした。

しかし手が動かなかった。

指が受話器に貼りついている。冷たさが皮膚を越えて骨まで入っていた。

そして、悲鳴が聞こえた。

女の悲鳴だった。

喉が裂けるほどの、長い悲鳴だった。

玲奈は受話器を落とした。

受話器は畳の上に落ちるはずだった。

しかし落ちなかった。

コードに吊られたまま、ゆっくり揺れた。

悲鳴はまだ続いていた。

玲奈は耳を塞いだ。

それでも聞こえた。

受話器からではなかった。部屋の中からでもなかった。

頭の奥で、直接鳴っていた。

玲奈はそのとき、初めて理解した。

あれは、知らない女の声ではない。

自分の声だった。

まだ叫んでいない自分の声。

どこかで、これから叫ぶはずの自分の声。

そしてその声は、悲鳴の最後に、はっきりと言った。

出ないで。

玲奈は畳の上に座り込んだ。

受話器は、まだ揺れている。

黒電話の本体は、静かだった。

玲奈は震える手でスマートフォンを探した。寝室に置いてきたことを思い出した。 立ち上がろうとしたが、膝に力が入らなかった。

受話器の揺れが、少しずつ小さくなっていく。

その揺れが止まったら、何かが終わる気がした。

あるいは、何かが始まる気がした。

玲奈は目をそらせなかった。

やがて受話器は、ゆっくりと止まった。

その瞬間、家のどこかで、別のベルが鳴った。

ジリリリリリリリリリリリリ。

今度は、台所からだった。

一度出た電話は、
二度目から、
場所を選ばない。

次章へ