電話が鳴っていた。
古い黒電話だった。昭和の映画に出てくるような、重くて、丸くて、 受話器だけで人を殴れそうな電話だった。
けれど、その家に電話線はなかった。
水原玲奈がその貸家へ越してきたのは、三日前のことだった。山の上にある古い家で、 坂道を下らなければ隣の家は見えない。昼間でも少し湿った匂いがして、夜になると、 家全体が森の中へ沈んでいくようだった。
不動産屋は言った。
たしかに静かだった。静かすぎるほどだった。
車の音は届かない。人の声も届かない。風が止まると、家の中で聞こえるのは冷蔵庫の低い音と、 自分の呼吸だけになる。玲奈はその静けさを気に入るつもりでいた。都会で失った眠りを、 ここで取り戻すつもりだった。
だが、最初の夜から眠れなかった。
天井裏で何かが動く音がした。古い家だからだろうと思った。柱が鳴る。床板が鳴る。 風もないのに、障子の紙がかすかに震える。理由をつけられる音ばかりだった。 だから玲奈は、気にしないことにした。
二日目の夜、台所で水を飲んでいると、廊下の奥から小さな音がした。
チン。
グラスの縁を爪で弾いたような、短い音だった。
玲奈は廊下を見た。暗かった。電気をつけても、古い家の廊下は完全には明るくならない。 隅に暗さが残る。階段の下、襖の隙間、柱の裏。光が届かない場所が、 こちらを見ているように思えた。
その夜も、彼女は眠れなかった。
三日目の夜、玲奈は早めに布団へ入った。スマートフォンの電源を切り、カーテンを閉め、 台所の電気も消した。家の中の音をひとつずつ消していくと、最後に残ったのは雨でも風でもない、 もっと薄い気配だった。
誰かが、聞いている。
そう思った瞬間、玲奈は自分で笑った。
疲れているだけだ。引っ越しの疲れ。仕事の疲れ。知らない家で眠る不安。 そういうものが、夜になると形を持ったように感じるだけだ。
彼女は目を閉じた。
それから、どれくらい眠ったのか分からない。
目を開けたとき、部屋はまだ暗かった。時計は見えなかった。 けれど、体が時間を知っていた。夜のいちばん深いところだった。
最初は、夢の中の音だと思った。
ジリリリリリリリリリリリリ。
玲奈は布団の中で動かなかった。
音は止まらない。
ジリリリリリリリリリリリリ。
それはスマートフォンの着信音ではなかった。インターホンでもない。 もっと古い音だった。金属のベルが震える音。遠い昔の家で鳴っていたような音。
電話だ。
そう思った瞬間、玲奈は目を開けたまま固まった。
この家に、電話はない。
契約していない。回線もない。不動産屋にも確認した。 固定電話を置く予定もなかった。居間には低い机と段ボール箱が二つ。 そのほかには、何もなかったはずだった。
それでも音は居間から聞こえた。
ジリリリリリリリリリリリリ。
玲奈は布団から出た。足が畳に触れた瞬間、ひどく冷たかった。 家全体が冷えている。冬ではないのに、夜の空気が水のように重い。
廊下へ出ると、音ははっきりした。
ジリリリリリリリリリリリリ。
居間の襖は少しだけ開いていた。閉めたはずだった。
玲奈は襖の前で立ち止まった。
中に、何かがある。
それは見える前から分かった。音の中心。暗闇の中の重さ。 誰かが置いたものではなく、そこに生えたもののように、居間の真ん中に存在していた。
玲奈は襖を開けた。
畳の上に、黒電話が置かれていた。
昨日まではなかった。
その前の日もなかった。
この家には、電話を置く棚さえなかった。
黒電話は、低い机の横でもなく、壁際でもなく、居間の中央に置かれていた。 まるで、玲奈がそこへ来ることを知っていたように。
受話器は揺れていない。コードも動いていない。 それなのに、ベルだけが鳴り続けている。
玲奈は声を出した。
もちろん、電話は答えなかった。
ただ鳴った。
ジリリリリリリリリリリリリ。
近所迷惑になる。
そう思った瞬間、自分でもおかしいと思った。隣の家までは坂道を五分下らなければならない。 この音が届くはずがない。そもそも、この音が本当に外へ出ているのかさえ分からない。
それでも玲奈は、誰かに聞かれてはいけないものが鳴っている気がした。
彼女は黒電話に近づいた。
畳の上で、足音がやけに大きく聞こえた。一歩。もう一歩。 電話の黒い表面に、居間の暗闇が映っている。そこに、自分の顔が少しだけ見えた。 けれど、目の位置が違うように思えた。
玲奈は手を伸ばした。
受話器は、氷のように冷たかった。
その瞬間、ベルが止まった。
家の中が、深く沈黙した。
玲奈は、まだ受話器を持ち上げていなかった。
ただ、触れただけだった。