線がない
貸家には電話線がなかった。壁に端子もなく、通信契約も確認されていない。 警察署へ押収された後も、電話はどの回線にも接続されていなかった。
それでも、ベルは鳴る。どこから来る音なのかは記録されていない。
それは、電話ではない。
呼び出すための器だった。
受話器は冷たかった。
でも、向こう側の声は、
生きていた。
黒電話は、最初に山の上の貸家で発見された。古い回転式の電話機。 重い受話器。丸いダイヤル。黒い樹脂の表面には細かな傷があるが、製造番号は削られていた。
玲奈が最初に見たとき、黒電話は居間の畳の上に置かれていた。 台も、電話線も、壁の端子もない。ただそこに置かれていた。 まるで、家が建てられた時からずっとそこにあったように。
受話器は冷たかった。冬の窓ガラスのように冷たく、持つと指の温度だけが吸われていく。 ダイヤルは動いたが、番号を回してもどこにもつながらない。発信音もない。呼び出し音もない。
それなのに、電話は鳴る。午前三時十七分になると、どこからも電力を得ていないはずのベルが鳴り始める。 ベルの音は大きくはない。むしろ、遠くの部屋で鳴っているように聞こえる。 しかし一度気づくと、耳を塞いでも止まらない。
警察は黒電話を押収し、証拠品番号317として登録した。 コードは切断され、受話器は封印され、金属棚の奥へ置かれた。 三日後、証拠保管室の録音装置には、同じベル音が残っていた。
記録に残っている特徴は少ない。しかし少ないからこそ、どれも異様に見える。 普通の電話として説明できる部分が、一つずつ消えていく。
貸家には電話線がなかった。壁に端子もなく、通信契約も確認されていない。 警察署へ押収された後も、電話はどの回線にも接続されていなかった。
それでも、ベルは鳴る。どこから来る音なのかは記録されていない。
着信記録には番号が残らない。交換記録もない。 ただし、録音装置にはベル音と、受話器を取った後の無音が残っている。
電話は誰かからかかってくるのではない。電話そのものが、鳴る。
一度、刑事が受話器を床に叩きつけた。受話器は割れたはずだった。 翌朝、保管棚の中で電話は元に戻っていた。
破片だけが、別の袋に残っていた。
どの証言にも「冷たい」という言葉が出てくる。 室温に関係なく、受話器だけが氷のように冷えている。
長く握ると、手の感覚が遅れて戻る。
モーテルの記録では、受話器の内側が少し濡れていた。 水なのか、唾液なのか、結露なのかは判定不能。
ただし室内に湿気はなく、空調は止まっていた。
黒電話は必ず午前三時十七分に鳴るわけではない。 しかし主要な事件記録は、すべてその時刻から始まっている。
まるで電話が、時間の割れ目を知っているように。
黒電話は、相手の顔が見えない時代の道具である。 誰がかけているのか、どこからかけているのか、声だけで信じなければならない。 だからこそ、恐怖に向いている。
電話は、姿を消して声だけを残す道具である。 相手の顔が見えない。部屋の向こうにいるのか、遠い街にいるのか、もう死んでいるのかさえ分からない。
『電話』では、その不確かさが恐怖になる。
普通の電話なら、受話器を置けば終わる。 しかし黒電話は、切ったあとに本当の恐怖が始まる。 音は消えても、聞いた声は消えない。
玲奈は電話を切った。だが、悲鳴は頭の中で続いた。
関係者の記録を整理すると、黒電話にはいくつかの規則がある。 ただし、規則があるからといって安全とは限らない。
主要な着信は、すべて証言者が一人になった瞬間に発生している。 人が戻ると、音は止むことがある。
耳を塞いでも、部屋を出ても、音はついてくる。 受話器を取る以外に、完全に止める方法は確認されていない。
受話器を取った直後は、必ず無音になる。 その沈黙の長さは記録によって違うが、平均して十八秒前後。
悲鳴の声紋は、受話器を取った本人に近い。 ただし、録音の一部には別の声が重なっている。
この物語は、黒電話を中心に広がっている。 物として見るか、声として聞くか、証拠として読むかで、恐怖の形が変わる。